アスファルトである。黒く重たくざらついた、世界の隅々にまで横たわっている、アレである。これがなければ世界はもっと狭かったのかもしれない。我々はこの物質の恩恵を受けている。が、一方で森を分断し、大地を覆い隠し、工事の度に悪臭をまき散らし、犬や猫や人間を捻りつぶす舞台となっているアレである。そのアスファルトが目の前の壁に張り付いている。いや、壁に掛けられた紙の上を流れ落ちているのだ。自重に耐えかね、だらしなく垂れ下がっている。時折、アスファルトが音を立てて落ちる。まるで世界の何処かで何かが崩壊しているような音だ。身体の内側が少しずつ削り取られるような不快感を覚える。田島鉄也個展、と言う現場である。初日ギャラリーを訪れると、公開アクションの最中であった。用意されているのは、ヤマト糊、アスファルト、うがい薬、トウガラシの輪切り、鎮痛材、食用竹炭パウダー・・・ どう考えても結びつかないこれらの素材が、彼の芸術四大元素「自然ー身体ー精神ー社会」によって融合するのである。
ここにある医薬品類を見て、作家の「身体は最も身近な自然である」と言う言葉を思い出す。医療と言うのはある意味では、肉体を自然から切り離す行為だ。身体は医薬品によって守られながら、同時に自然から遠ざけられてしまう。病気は自然現象である。病気が自然からのコンタクトだとすると、それを遮断する医療行為は身体を自然界から隔離する制度と言える。今回の「自然ー身体ー精神ー社会」を成立させる為には欠かせないツールなのであろう。
徳用4kサイズのヤマト糊を用いて、これらを練り込んで行く姿はまるで現代の鍊金術師…と言いたいところだが、施工中の普通のおじさんである。
ここで繰り広げられている行為は、まぎれもなく芸術である。何故ならここは芸術を鑑賞することを前提に用意された画廊と言う空間だからだ。これが閑静な住宅街の塀に向けて行われていたら、立ち所に通報されて近くの交番で家族の迎えを待つハメになるであろう。作家は言う「芸術も制度である」と。本来自由とされる芸術表現が孕んでいる矛盾も、彼の作品行為に潜んでいるのだ。彼が野外ハプニングに及ばぬことを願うばかりである。
この日のアクションは終わった。作家の腕に付着したアスファルトの残骸を見て、己の幼少期に思いを馳せた。その頃すでに地面は厚くアスファルトに塗り固められ、遊び場の殆どが道路に面していた。激しく運動した結果、路上での転倒もしばしばあったが、その都度、手足にはアスファルトの細かい粒がめり込んでいたものだ。ふと、その時の感触が蘇って来た。身体はアスファルトを記憶していたのだ。高度経済成長期の都会に生まれた私にとって、アスファルトは正に外界=自然に繋がる入口だったのかも知れない。そう思うと、この黒い塊さえ私の身体の一部なのではないかと言う考えに捉えられた。肉体は歴史を記憶する。何処を向いても八方塞がりの危機的に膨れ上がった怪物を前に、我々は己の肉体と言う歴史のぎっしり詰まったもう一つの外界=自然に向かって脱出すべき時なのではないか、と作家の行為が物語っている気がした。
暴力的にすら映った作品行為の果てに出現した表面は、無機物と有機物が反応しながら解け合い、不思議な物質のゆらぎを漂わせて艶かしく光っていた。人類が去った後の文明の残滓が巨大なタールの海を作ると聞いたことがあるが、その始まりはこのような様子なのだろうか。
田島鉄也著作 "<野生>論"である。
一文を引用したい。「… 私が在ると言う事実。なぜ、何の根拠があって私は在るのか? なぜ在るのか、なぜ何もないではないのか? 存在の不思議、存在の凄さ、存在の驚き、いつ、何度でも私は驚愕する。確かに私は在る。…」五感に染み渡るような、瑞々しさである。現在開催中の展覧会場で消費税無し¥700で絶賛発売中。私は迷わず購入しサインを求めたのだ(って、これでは只のファンではないか!)
田島鉄也 個展 <自然ー身体ー精神ー社会>
1月28日(月)-2月 2日(土)
11:30-19:00 (-17:30 on Feb.2)
公開制作 2月2日(土) 15:00-
ギャラリー現 東京都中央区銀座1-10-19 銀座一ビル3F tel 03-3561-6869
http://g-gen.main.jp/
田島鉄也のメッセージサイト「感覚で世界を捉える」
http://te-tajima.blogspot.com/
東京の真ん中の居酒屋で、遥か遠洋で捕れたマグロのスキ身の「存在の不思議さ」に驚愕しながら、夜の更けるにまかせ、作家と杯を交わす至福の時間であった(やっぱ、只のファン?)